昭和46年01月10日 月次祭
これ位のことなるからによからんと、心許すに過ち起こる。
今年のまぁ信心の焦点、スローガンと頂いておりますが。いよいよ大きなおかげを頂かせて頂く為に、ここの信心が出けなきゃいけません。いわゆる大きく大きく、同時に小さく小さくと。青年会の方達が、年頭の御本部参拝を致します時に頂きました。「大きく大きく、小さく小さく」と。大きなおかげを頂くためには、小さい所に心が使われる。小さい所も疎かにしない、大きな願いを持っておる人はそこん所が違う。と昔から言われておりますね。身に大望をを抱いておる人。
例えば、支那に韓信という人がありましたですね。韓信が「股を潜るも時をといせず」。末はどれほどしの素晴らしい大人物になる、そういう希望そういう願いを持っておる。ですから、もう小さい事位そこに自分が頭を下げておれば片付くくらいなら、自分が人の股を潜って、それでそこの問題が解決するなら、そのくらいな事は言わばなんとも思っていないと。それは大きい願いを持っておるからです。
日本にもそれによくにた話がありますね。神埼与五郎の東下りなんかそうです。それこそ身分卑しい者から、辱しめを受けたり、さげすみを受けたりしましても、そこん所をそれこそ一撃のもとにやって退けれ、切って捨てても良いような者なのですけれども。それをじっと辛抱する。それは身に大望を持っておるからです。大きな願いを持っておるからです。私は本当に大きなおかげを頂きたいと、本当に願う人はね、そこが違うと思うんです。言うなら人が人偏なら私は行人偏と。
何時もそこん所を行として頂く訳なんです。私共どうでも神様が下さろうとする一つの願い、神様の願いである。所謂大きなおかげを受けてくれと。そして大きく世のお役に立たせて貰えれる人物になってくれという神の願いをね、ひた受けに受けさせてもろうて、一つおかげを受けていかにゃならん。皆さん本気で大きい願いを持たせて頂いたらね、所謂金光様のお歌である、これ位な事と言う様な事がなくなります。
これ位な事とまだ自分が、それを平気で割り切ったり、思うたりしておるならまずまず自分がどんなに大きなおかげを願っておっても、それはまずあなたの願いが成就しないと言うて間違いない本当私は思うです。今日先ほど堤さんがご無礼日吉さんが、前講を勤めさせて頂いておられました。やはりまぁ色々な願いをかけ信心の上にも、信心の分からせて頂けれる喜びと言う様なものも、段々少しは分かりかけてきた。
さぁ所がそこが人間であり、本当に大きなおかげを頂かなければならんという、言わば一念に燃えておるという程しの事ではない。証拠に例えばこの事だけはと心に思い誓いながらもです。例えば十三日会の日に御無礼したとこう言う。ところが早速そのお気付を頂いた。お夢の中にそれこそ高い所から川に飛び込んだ。ところがそこには、水が流れていないという所に飛び込んだという、お夢を頂いて。
もうそれこそ愕然とするほど、そのこりゃどういう事になるだろうかと思うて、本気で心を神様に打ち向けさせて頂いて、些細な事にもそれこそ水も漏らさん様な日々を、神様に、心に縋りお詫びさせて頂き抜かせて頂いたという、話をなさっておられます。所がです所が、勿論お水のない川って言うんですから、御恵みのない所と言う事でしょうね。水をお恵みとして頂く。
そういう例えばお知らせを頂かれてです、自分で間違いなくお気付け、又お知らせを頂いたと思われてまあ日々を、心を神様に向け通しに受けさせて頂き、お取り次ぎを頂いてお願いをさせて頂いておりましたら、思いがけないおかげが次々と頂けてまいりましたとこう言う。例えばなくなっておった時計が出て来るとか。思いがけない金銭のお繰り合わせを頂くとか、と言うようにそのおかげを下さるというのである。
ですから心を本当に神様に向けさせて頂いておりますとね、お気付けを頂くと言う事は、おかげをやりたいの一念神様の思いが、そのようにして現われて来る事を思います。まぁ信心を進めて行く上に色々と御気付を頂く。信心を進めて行く上におかげを頂いていく。そこでまぁ些細な事でも実意丁寧を持って、心しておかげを頂いて行く。と言う意味においてこの位な事だから、今日はもうお参りするごと決めとったばってん、もうよかよかと言った様な事にはならんで済む様なおかげを頂かなければならない。
まぁそれは信心を進めて行く上に、そういう小さい事にでも、疎かにしてはならないという事になる。今日私夕方久保山さんやってきましてから、何時もここに昼来るんですけど、今日は夕方でしたから、夕方散髪をしてもらう髭を剃って貰って。本当に最後の所まで覚えとったつもりだったんですけれども。最後に顔にクリーム塗って貰いよる時、覚えとったっじゃから、最後までおぞどったっじゃけれども。
ちゃんと何時の間にか、いつ帰ったじゃ分からん。やっぱ寝て覚えなかった訳です。その、僅かばかり休ませておる間にね、こう言う様なお夢を頂いた。沢山の人が集まっております。その中に合楽の方達も沢山おります。中に修行生の方達が皆黒衣に羽織袴を着けた人もおる。ちゃんと合楽の紋のついた黒衣を着ておる。それかと思うと全然黒衣に紋のない人も何人かある。
それがそのどう言う様な事かと言うと、丁度ですねまぁいうなら、宝くじの発表があっておると言った様な感じなんです。何かそれぞれに札を頂いておる。だからその札と、何かこう、ところがもう殆どの人が、皆その空ばっかりで何も貰えないという様なふうらしいところなんです。それから私も頂いておりましたから、それを代えに参りましたら、その代えて下さる所の机の上にですね、楊枝です爪楊枝のね、上にこう赤い羽が付いたような爪楊枝が、こう束にして置いてあるですもん。
これは売んなさるとばいなぁと思ったから、これ一本分けて下さいと言うて、それを一本分けて貰いました。いやそれは、お金は要りませんけれども、あなたはおかげ頂きなさったですねぇと、これを買うた人は絶対、当たる事になっとる。何かやっぱ、富くじの様な感じですね。あなた大変なおかげ頂きなさったですよ、あのこれを持って交換に行きなさいとこう言われる。私は迷いそれが沢山の人が、そのそこのおります所を、押し分けてからまいりました所が、もう私が何かその沢山な御褒美か、商品かを貰わせて貰おうとする、ほんの寸前にですね、裏の方から大きな声がしよる。
どこの奴か知らんけども、泥棒んごたるこつしてから、信心しよってから、こげなこつしてから、もう今日はもうこれで打ち切ると。もう今日は、商品な引き換えてやらん。私が頂こうとする寸前に、奥の方でそういう声が聞こえて来るんです。私は直ぐ自分のはぁこれは信心してからて言いよるけん、家の修行性じゃなかじゃろうかと直感した所だった。それがその、もうこれでやらんというのじゃないらしい。
言わばしばらくもうもやもやしたけんやらんっち言うごたる風で、もう一時また時期を待てばいわゆる、頂くおかげが遅れたという感じなんです。これなんかはですね、もう言うならば致命的なものなんです。例えばお参りする事に決めとったばってん、お参りをしなかったとか。まぁ人と争いをしたとか、今日は腹を立てたとか、今回の事に実意を欠いたとかと言うんじゃなくてです。
もうこれは許されないと言った様な事を、たったこのくらいな事だからと言うて、しておったのが、発見した訳です。だからそういうそう信心しよってから、こげな泥棒んごたる事してからもうもうやれん、もう私の頂かせて頂こうとする、寸前にそれを言う。一人のいうならばお粗末御無礼であり、たった本人はこの位な事と思うとろうけれども、これが言うならば、沢山の人にその波紋を及ぼすという事なのです。
言うならば合楽全体のおかげに関わるという事なのである。大きなおかげを頂かせて頂くために、ですからこれはまぁ信心させて頂いておって、これは私は思うんですけれどもね。本当言うたら信心させて頂きよって、そげな考えが起こるはずも無いと思うんですよね、例えば。勿論思いもしませんよね。けれどもやはりですね、それをまぁこの位の事と思うてやってのかすそれが発見した。
これはね許されない事なんです。だからちょっと、もうこの位な事でも、例えば、ほんなら、日吉さんあたりの様に、お気付を頂くという、これ信心を進めて行きたいていうから、神様も信心を進めさせて下さろうとする働きを下さる。そういう働きかけは、例えば、堤さんのような、日吉さんの様な場合がありますよね。そういうような事の上にも、私共は、心許してはなりませんがです。
こればっかりは許されないという事、それはいくら小さい事であっても。そういう事があるんです。私共が、迂闊に致しておりましてからです。自分一人の迷惑、自分一人のおかげを受けられない、おかげを損なうぐらいなら良いけれども。合楽全体のおかげに差し支える、差し障るような事で、いうなら、まっ直ぐい道を歩かなきゃならんのに、曲がった道を歩いたり、曲がった事をしてはならない。
たったこの位でも曲がった事はいかんち言う。
だから信心しよりゃ、まぁこれ思うんですよね、もうそげな事は絶対私どんはなかち思うとるけれどもです、ほんなら信心しとってもです。この頃からある人がお参りして来て、立派な下駄履いて来た。それとを平気で履いて帰った人があったち、それを。それこそ、自分のつはもう、てんで腐れたごたる下駄履いて来とる。じゃから信心しよるから、決してよか人間ばっかりとは思われません。
それが言うならばお賽銭拾いてもよか、来るならば。そこからおかげを受けて行けばいいとおっしゃるから神様は。けれども私共が本気でおかげを頂かせて頂こうと願うならばです。この位の事だからと心を許してはならない。それも例えば今日私がお知らせを頂いた、その事はもう言うな、致命的なようなもの。又はほんなら信心を進めて行く上にです、こうと決めたらこうと例えば、そこを行の上に現して行く。
この位な事位なと言うてそこを疎かにしない。そういう信心であってこそ信心は成長する。だから信心を頂かせて頂くという事。それからおかげを頂くという事の上にね、私は今日夕方の頂いておるお夢の中から、私はあの爪楊枝という事に羽がこうあったこれはどういう事だ。もうそれがねやはりそれを下さいと、買おうとする者はまずなかったらしい。それを私が買おうともう本当にあなたはもうこれを、これ買いなさった。
言わばこれは売るのじゃありませんあげるのです。けどもこれをあなたが求めなさったという事はです。もうあなたは絶対当選する当る。何かよかもんが頂かれる。はぁ喜んで行った。その瞬間にそんな私は悪か事しとらんばってん、言うならばその沢山の中の一人が、そういう信心しよってから、そげな事して言った様な事をしたので、向こうの方が腹けぇちから、奥の方からもうこれでやめた。
もうやらんちこう言う。惜しい事だという気がする。その爪楊枝という事を私は、どういう事であろうかとこう思ったんですけども。これ、私は妻を愛するという事だと思いましたですね。主人が家内、家内が主人、だから言うならば、愛し合うという事。愛し合うと、合うという事は、拝み合うという事。ですか、勿、これ、妻だけの事じゃありますまい。自分の周囲の、自分、相対する全ての人をです。
拝ませて頂けれるような信心だという風に私は頂きました。今日もお風呂頂いてから、教衣をつけようと思うてから、共励殿に参りましたら、帯を私は自分の部屋でいくら探しても、探してもありませんもん。大して探したばってんなりませんから、とうとう帯無しで、共励殿までやってまいりましたら、家内がちゃんと持ってきております、他んとと一緒に。お前こう、そうにゃ探したどころが、こけもう、お前が持ってきとったばいねち言うたら、「はい」ち。
だから「はい」ち言うだけじゃなくて、ありゃそりゃすんませんとかどうか言やよかつばってんが、「はい」ち言うだけ。ははぁ今日はちった機嫌があんまようなかばいなと、私は思うた。だからあれが、ちらの調子が悪い時には、「はい」ち言うちから、そげんお前は、すんません位言わんかち、言いよるとこですけども、それを言うたら、妻を愛する事にならんですよね。私が夢を頂いたばっかりの事が、はぁ妻を愛せにゃいかんちいう事じゃったから、もうそれは責めませんでした。
家内もあれはよかごと思うてから、持って来とるとですからね。私は自分で探して回ったつが、まぁちったぁもやもやしよる。こげんとば黙って持って来てからもう、どがしこ探したかち言うちから言う。それを言わんでですほんなら家内が例えば、その時ですよね、おいこけおいお前が持ってきとったばいねち言うたら、「はい」ち言うたぎり。あぁらそりゃすんまっせんちこう言や、いっちょん問題はなかつばってんか、すんまっせんも言わん。それでこっちは出来とるもんだから(笑い)それを責めんですんだ。
いやそれは夢頂いとったけんで。ははぁ何時でんこげな所で私が信心な抜けよるばいなと思いましたよ本当。今日お夢ば頂いとったけん妻を愛すると。妻に楊枝があるち言いよりなさる。ははぁこげなこまかとこから、私がおかげは抜けよったなぁと思わせて頂いた。ところがお夢頂いて起きたばっかりの所じゃもんだから、おかげを頂いてから、あ、はぁ機嫌が悪いごたるから、どうぞ心のお繰り合わせを。
そりゃ機嫌が悪かろう、もう早う風呂に入って下さい、御飯を頂きなさいて、皆に、もうそれが、ずれぇだれ集まって来る。とても勝手ごつしよる者な、ほんなこてもやもやする筈じゃ。そういう中にですほんなら丁度私が、行き合わせたつが腑の悪かつ。(笑い)お前がここへ持ってきたつか、「はい」ち。だから私は本当にこげん所をですね、こりゃもう、人との場合でもそうですけども、夫婦の場合は尚更な事。
あの善導寺の初代はね、「コリをつますな、コリをつむな、身を慎め」っと仰るような、御教えを、何時も自分の心の守りにしておられた訳です。ですからもう、絶対奥様を怒りになられたと言う、不足を言われた事が無いて言われております。又、それは本当に円満そのものの方でした。先日先生の有り難き勿体無きの事を表現して、あの赤玉ポートワインを頂きました。
と言う様に優しい所謂有り難き勿体無きでおありになった訳です。それで何時も自分の心の上にお繰り合わせを願っておられた。どうぞ家内と一緒に気分の悪い様な事がないようにと願うたと、言うておられたそうです。今日は丁度こっちも気分の悪るかつ、家内も気分の悪かつ言うごたる風で行き合うていかん。けどもこちらがおかげを頂いて、そのお夢でお知らせ頂いておったから、あここばいなとこう思うたけれどね。
あれがですね、もうこちらがいらいらしとる時でも、家内が豊かにあぁそうですか、すいませんと言う様な時なら、それで問題はいっちょん起こらん。ほんなら家内が、今日はちった機嫌が悪いなち言う時には、こちらがゆっくりそれを受けてやるだけじゃない、それを祈ってやれる程しの心の豊かさを頂かせて頂いておったらね、いっちょん問題は起こらん。これはだから人間関係の全ての上にそれが言える。
他人の場合だって同じ事。親子の上だって夫婦上だって、対人間の場合。ですからね、そういう例えば時にです、私共がねたったこの位の自分でこのくらいの事と、気も付かんな、そんならその事をすみませんぐらい言わんかち、平気で言いよった今までは。しかしそういう所にですいわいる、妻を愛すると言う事の念が、少ない事になって来る。そういう所からおかげが漏る。
楽しいですよそういう心の状態にならせて頂くという事は。それこそ日々が優雅な生活が出来るんです。些細な所からそれこそ蟻の一穴から、堤防の堤が、堤の堤防が切れると言われておる。たった蟻が穴をほがしたような所から油断大敵である。私共が大きな願いを立てさせて頂けば、頂く程ちっとは馬鹿と言われてもいい、ちった気のきかんと言われてもいい。本当に言わば真っ直ぐい、言うならば直ぐい道をね歩かせて頂くと言う事、それが板についてしまう。
それが勿論信心しよら当たり前じゃろうと思うけれども、そうじゃない場合があると。やっぱお賽銭拾いにくるともおりゃ、下駄代えち行くともおるちいう事。ですから段々信心させて頂くようになってです、そこん所が分からせて頂くようになり。些細な事も疎かにせずこの位な事、なるからによからぬと心許すところに過ちを起る。その過ちもただ自分だけですむ過ちなら良いけれど、それが自分一家だけではない、まあここで言うならば、合楽全体に響くような過ちになったら、こりゃもう致命的なんだ。
又は自分が信心を進めて行くという事において、神様は絶えず信心が本当に解りたい、良い信心を頂きたいと願う事を、神様がこよなく喜んで下さる証拠に、少し信心を緩めると、神様がすぐお気付けを下さる。それは日吉さんの場合所がそこん所を、心して改まらせて頂いておったら、さあお気付けを頂く段じゃない、罰かぶるいやその段じゃない、お叱りを受ける段じゃない、次々と思いもかけないおかげが待ち構えておる。
神様はそういうおかげを下さろうとしておるのである。ですから私は本当に信心を進めて行く上にです、心してこの位な事だからと言うて、心を許す様な事のない、いやそれが身についてしまう信心を進めて行く。ですから信心を進めて行くという事になりますとね、もうあの例えば今日吉さんなんかが、心が信心に向けて張り切っておられるから、お気付を頂くけども。信心が緩んでお気付を頂いても気が付かんようになると、もうお気付も下さらんようになりますねこれは間違いなく。
そこに神様のね、止むに止まれんお蔭を頂かせてやりとうでたまらなさらんと言うものを察する事が出来ます。と同時に、たったこの位な事だからと言う事がです、もう許されないというような事は、例えそれが、小さい事であっても、それはお蔭にならん。そこでです、お蔭を下さろうとするその神様の働きの原動というか、基の所になります、その頂き方がです。いわゆる爪楊枝である。妻を愛するの心。
いわゆる、何時も家内と拝み合うておれれる。人と物と事柄と拝み合うておれれる。いや、向こうが拝まんでも、こっちが拝んで行ったら、真の拝む事がなされるならば、必ず向こうも又拝んでくれる様になるのが信心。だからその間が、やっぱり辛い時もある。昨日ある方がまぁ夫婦の事でお参りさせて頂いた。主人がどうのああとこう言う訳なんです。で、どうぞおかげを頂きますように。
だから主人よりかあんたん方が、いっちょおかげを頂かにゃいかんよ。そこん所をいっちょじぃと、どうしてこんな事がと思わずに、そこを自分の心を本気で見極めさせて頂いて、おかげを頂いたら丁度その事のお届をさせて頂きよったらね、あの納豆を頂いた。納豆ちいうのは所謂豆を一遍煮て、そしてそれを腐敗状態にするわけですね、腐った状態にするわけです。いうならその奥さんは、心が腐っているわけです。
もう本当に毎日毎日主人のあぁした、ぶっちょう面を見とらんならんと思うただけでも、心がやるせない。だから主人がお蔭を頂くようにと言う事になってくるんだけれども。主人より先、自分自身がお蔭を受けたら良いじゃないかと。それを見て本当に主人も苦しかろう、辛かろうと思えるようなおかげを頂いたら良いじゃないか。同時にこの事によって、神様が分からせて下さろうとしておる事を。
じっと自分の心の中に分からせて貰うて、これに金光様、金光様と筵をかけるようにこれを、言わば発酵状態にするおかげを頂いたら、この豆がねかえって本当に有り難い、なんとも言えん香りを出したね。所謂美味しい納豆が出来上がって来る。是を一歩信心がなくて間違えたら、信心があっても同じ事ですけども間違えてです。その金光様、金光様とこの是にお湯を掛ける様な事しなかったら、是はもう本当に腐ってしまわなければならん。そういう所にも小さい心を使わなければいけない事が分かる。
ははぁ今こそ納豆が出来よる時だ、ここで油断してはならないと言う事にならなければならんとこう思うんです。愈々寒修行もそれこそ熱気をはらんでの御祈念が、毎朝ここ今朝なんか日曜でしたか、もう御広前一杯それ立錐の余地もないごと一杯でした、今日は。一生懸命の、若先生の先唱について、所謂御祈念を皆さんがなさっておられます。どうしても信心の土台になるもの、基礎になるものそうした寒さを寒さともいとわず、思わずに私は朝参りをさせて頂く元気な心。
そういう生き生きとした心を頂いて、信心を頂くじゃなからないとです。言わば神様が良い納豆を作らせて下さろうとする働きがある事を知らずに分からずに、いや分かっておっても、修行がない時にはね、それを本当に腐らかせてしまうような結果になる。それが、取りも直さず、大きなおかげを頂かせて貰う事の出来ない。そこからおかげが漏っておったかと思うような所になってしまう。
たった私と家内のやり取りの中に帯がなか、あぁお前が持って来とった。そんならお前はと私が言う所にはもうそこから、そういう所からおかげが漏らんとも限らない。そこん所をですあっ今日は家内がちった機嫌の、何かくしゃくしゃした事のあるばいなと思うて、心の上にお繰り合わせを願わせて頂く様な心なんです。そういう心の状態である事は勿論私が助かっておる事でもあるけれども、それが大きなおかげを、言わば見事に受け止めて行くことの出来れる受け物が、出来て行きよる事になるのですから。
どうでも一つ大きなおかげを頂かなければならない。今晩先ほどある方がお届してました。ここにもうそれこそ見た事なかごたる大きな奉書紙に、もう見た事なかごたる大きなね、こんなに大きな水引きのかかったのを、神様が下さろうとしておると言う様な、お夢を頂いたと言って、今先ほどお届けしておる人があります。神様がそう言う様なおかげを頂かせて下さろうとしておる。
それにその人がどげん思いよるかち思うと、その水引きの方だけば貰いたいち思いよる。(笑い)それなら遠慮することが要ろうかいなぁああた。その人がずっとここでは沢山水引きがたまりますと、水引きで何か色んなもん作りよるけんでどっか、久富さんに言うて貰いよるそれを。それで花んごたるとば作ったり色々しよる。だからそんこん、ほんなものは貰おう思わんな、そん水引きの方ば頂きたいち思いよる。
皆さんおかげを頂くならね、本気でこの神様が下さろうとしておるものを頂かにゃいかん。もうこん位でよかなんて思うちゃ駄目です。何時でしたかある人が、先生ここに沢山のお供がありますから、あの箱の綺麗なのやら、包装紙のとても良いのが集まるから、先生あれを下さいちこう言われる。ところが私はあげな、昔から趣味があったですね。綺麗な箱やらその包装紙やらを、貯める趣味があったんです。貯めよった。
けども私はね、そげん言わっしゃるから、あげようちゃ言うたものの、ちっと惜しかち思うた。ところが神様はね、それを包んだ中身の方ば頂けれるおかげを頂けと神様は仰った。包装紙や空箱じゃいかんち。こりゃもう二十年も前の話です。ですから折角、私共が、ちょっと汚い心です、言うならばね。そりゃ包装紙どん貯める位な心ではつまらんち。箱どん貯める位な事じゃ出けんて、その中に入っておるそれを頂かせて頂けれる、信心になったらいいのだ。
だからそういう小さい様な、自分の汚い心にもです。心して思うて見ますと、はぁほんな事思い方が違とった事を気が付ます。大きなおかげを頂かせて頂く本気で思うたら。それこそシナの韓信じゃないけれども、日本の神崎与五郎じゃないけれども、それこそそこん所が辛抱出来る、そこん所を辛抱出来るもう平気なんだ。こう言う馬子方風情に頭を下げる位な事はもう、その大きな願いの事を思うたら問題じゃないです。
本当に大きな願いをかけるならね、そこのところの、言わば、普通の者なら辛抱出来んという所を、平気で辛抱して行けれる信心。普通の者なら、そこを疎かにしても平気でおる所、そこを、とりわけ大事にさせて頂くという信心。その事がです、この位の事なるからによからんと、心許すに、あやまち起こる。この事を一つ本気で、一つ取り組ませて貰うて、日々の生活の中に、そういう心を使わせ頂いておりますと、私が最近言っておる、より優雅な生活をさせて頂こうという。
本当に、あの、心豊かな優雅な生活も、また出来るおかげを頂く事になります。どうぞ、朝の御祈念に合わせての寒修行、出来ない人は、まあ何日間でも良いじゃないですか、あの雰囲気に触れるだけでも良いじゃないですか。お参りしようと思いよるばってんと思うとる人は、一つ、今晩を境に、踏ん切りをつけて、一つ本気で修行に取り組ませて頂くおかげを頂かせて頂きたいと、願うもんでございます。
どうぞ。